気候変動への対応は、今や企業経営や私たちの生活にとって不可分なテーマとなっています。しかし、その歴史や、「カーボンプライシング」という概念は、十分に理解されているとは言えません。
本稿では、YouTubeチャンネル「伊佐陽介 | カーボンニュートラルを読み解く」にて公開された、一般社団法人鎌倉サスナビリティ研究所の特別顧問である足達英一郎氏と、株式会社バイウィル取締役CSO兼バイウィル カーボンニュートラル総研 所長の伊佐陽介が行った対談内容を基に、気候変動対応、特にカーボンプライシング(CP)の歴史的変遷とその構造、そして私たちがこれからどう向き合うべきかを解説します。足達氏は、1999年に日本初のエコファンドを立ち上げて以来、25年以上にわたりサステナブルファイナンスの最前線で活躍されてきた専門家です。
本ブログは足達氏と対談をした、バイウィル カーボンニュートラル総研 所長の伊佐が、対談の概要について解説したものです。
2015年のパリ協定採択以降、世界は「カーボンバジェット(許容される温室効果ガス排出量の上限)」を意識し、地球の温度上昇を産業革命前と比較して1.5℃以下に抑えるという野心的な目標に向けて動き出しました。しかし、足達氏が指摘するように、私たちの社会は資本主義経済の中で長らく「売上」「利益」などの「経済指標」を最優先する価値観で動いてきました。そのため、環境対策はどうしても「コスト」として捉えられがちです。
気候変動問題の根本には、「負の外部性」という経済学的な課題があります。つまり、CO2を排出して環境に負荷を与えても、そのコスト(社会全体が被る損害)を排出者が直接負担しない構造があるのです。排出者自身がコストを払わないなら、排出を抑制するインセンティブは働きません。この「フリーライド(ただ乗り)」を許容する構造こそが、気候変動問題を深刻化させてきました。
この構造的な欠陥を是正し、環境負荷に「価格」を付けることで経済活動の中に環境配慮を組み込もうとする政策手段がカーボンプライシング(CP)なのです。
足達氏は、気候変動対応、特にCPの視点から、過去約50年の歴史を大きく3つのターム(期間)に分けて解説しています。
第1ターム:課題認識期(1972年頃~1997年 京都議定書採択)
この約25年間は、気候変動問題が地球規模の課題として認識され始める黎明期でした。
このタームでは、CP自体はまだ確立されていませんでしたが、炭素以外の環境負荷に対するプライシングの試みが、先駆的なプレイヤーによって模索され始めていました。
第2ターム:停滞期(1997年頃~2015年 パリ協定採択)
京都議定書が採択されたものの、その後の約10数年間は、気候変動対策が思うように進まなかった「停滞の時期」と言えます。
この時期、CPは先進国を中心に炭素排出を対象とする形で試みられましたが、世界的な足並みは揃わず、大きな進展は見られませんでした。
第3ターム:再起と加速期(2015年~現在)
停滞期を経て、気候変動対策が再び力強く動き出したのが2015年以降です。
気候変動対応の歴史を改めて振り返ることで、経済至上主義が、世界の発展を加速し続けて来た裏側で、環境に及ぼしてきた負荷の大きさと同時に、気候変動が50年もの長期でも進まなかった構造的な要因にもなっていることが再認識されました。また、経済至上主義的なパラダイムだからこそ重要なはずのCPも、未だ健全に機能しているとは言い難い状況であることもわかります。ここで改めて、CPの概念、目的、そして構造について整理しましょう。
CPの基本概念と目的
CPの根底にあるのは、「これまで無料だった炭素排出に価格を付ける」という発想です。これにより、環境負荷という外部コストを経済活動の内部に取り込みます。 その本来の目的は、主に以下の4点に集約されます。
日本では、これらの効果を通じて経済成長と両立する「成長志向型カーボンプライシング」を目指しています 。
CPの3つの構造
足達氏は、CPを以下の3つのカテゴリーに分けて理解することを推奨しています。それぞれ目的や主体、機能が異なるため、整理して理解・議論・検討しましょう。
1. 政府によるカーボンプライシング(国家権力による規制)
2. インターナルカーボンプライシング(ICP:企業内部の管理会計)
3. 民間セクターによるクレジット取引(ボランタリー市場)
パリ協定後の加速期(第3ターム)を経て、私たちは今、気候変動対応の新たなフェーズ、あるいは踊り場に立っているのかもしれません。
関心のピークアウトと経済・地政学リスク
足達氏は、気候変動への社会的な関心は、実は2019年頃にピークを迎えており、その後のパンデミック、経済の停滞、インフレ、そしてウクライナや中東での紛争といった複合的な危機により、人々の関心は「2050年の未来」よりも「目の前の生活や安全保障」へと引き戻されている、と指摘しています。この「時間軸の後退」は、長期的な取り組みが必要な気候変動対策にとって大きな逆風です。
経済的不満と政治的なバックラッシュ
さらに、経済格差の拡大や生活困窮に対する不満が、一部の国々で反環境政策を掲げる政治勢力への支持という形で噴出しています。気候変動対策が一部のエリート層の関心事と見なされ、一般市民の負担増に繋がるという認識が広がると、対策への支持は失われかねません。第3タームで築かれたモメンタムを維持するには、気候変動対策と社会・経済的な公正性を両立させる視点が不可欠です。
価値観の共有と世代間のギャップ
CPやカーボンクレジットが有効に機能するためには、「未来の環境価値を現在価値に換算する」という考え方、すなわち長期的な視点を社会が共有することが前提となります。「今さえ良ければ良い」という短期的な思考が支配的になれば、これらの仕組みは形骸化しかねません。
一方で、ある調査では、日本の若い世代(30代半ば以下)には希望を見出すことができます。総じて環境意識が高い上の世代は、一方で「高くても環境に良いものを買う」ことには消極的なのに対し、若い世代は環境貢献や社会貢献に対し、自己の満足感として対価を支払うことに抵抗が少ない傾向があるといいます。これは、教育などを通じて価値観が変化している可能性を示唆しており、今後の取り組みにおいて重要な推進力となるかもしれません。
グローバルな合意形成の難しさ
地球規模の課題である気候変動対策には、国際的な協調が不可欠ですが、そこには先進国と途上国の対立という根深い問題が存在します。途上国からは、「歴史的に排出してきたのは先進国であり、我々にはまだ発展し排出する権利がある」あるいは、「気候変動問題の主犯である先進国がそのための資金を拠出すべきであり、我々に負担を強いるべきではない」という主張がなされます。これに対しては、先進国が率先して脱炭素化を実現し、その技術や資金で途上国の取り組みを支援するという姿勢が求められますが、十分にそれに応えられているとは言いにくい状況です。
このような複雑な状況下で、日本企業はGX、脱炭素にどう向き合うべきでしょうか。足達氏は、発想の転換を促す5つの戦略オプションを、理想的な優先順位と共に提示しています。
日本企業の現状:やりやすい順番でしか取り組まない
求められる「移行計画」と「自律的思考」
企業には、これらのオプションをどう組み合わせ、いつまでに何を達成するのかを具体的に示した「移行計画(トランジションプラン)」の策定と開示が求められています。しかし、不確実な未来に対する計画を開示することへのためらいも、日本企業には根強くあります。
筆者は、カーボンクレジットを単なるオフセット手段ではなく、「脱炭素投資の成果を証明し、最も効率的な削減が進む分野・地域へ資金を循環させるツール」として捉えるべきだと考えます。国際的なガイドライン(VCMIなど)も、自社での削減努力を最優先としつつ、より費用対効果の高い外部の削減活動へ資金を振り向けることの合理性を示唆しています。
最終的に、足達氏と筆者である伊佐が共通して強調するのは、外部の権威や基準に依存するのではなく、自社の状況を踏まえ、自らの頭で考え、試行錯誤しながら独自の戦略を築くことの重要性です。不確実な時代だからこそ、「誰かのお墨付き」を待つのではなく、本質を見据えた計画を立て、勇気をもって実行に移す。その自律的な姿勢こそが、GX時代の変化を乗りこなし、新たな成長機会を掴むための鍵となるでしょう。
気候変動対応の歴史は、経済合理性と環境保全の相克、国際社会の協調と対立、そして技術革新と社会の価値観の変化が織りなす複雑な道のりでした。カーボンプライシングは、その中で生まれた、環境問題を経済システムに組み込むための重要なツールです。
私たちは今、第3タームの加速期から、新たな課題に直面する移行期(あるいは踊り場)にいます。逆風や不確実性は増していますが、若い世代の価値観の変化など、希望の兆しもあります。日本企業がこの難局を乗り越え、真のGXを実現するためには、過去の延長線上ではない、大胆な発想の転換と自律的な行動が不可欠です。カーボンプライシングを単なる規制やコストとして受け身で捉えるのではなく、リスクマネジメントを進化させ、新たな事業機会を創出するための戦略的なドライバーとして活用していく。その先にこそ、持続可能な未来が拓けるのではないでしょうか。