2026年6月、SBTi(Science Based Targets initiative)が企業向けネットゼロ基準の全面改定版「Corporate Net-Zero Standard Version 2.0(以下、CNZS 2.0)」を公開しました。すでに世界で11,000社超が検証済み目標を保有する、事実上の脱炭素のグローバル標準のメジャーアップデートです。

私たちはこの105ページの原典を精読し、これは単なる基準の手直しではなく、SBTiの思想が「目標設定(Target Setting)」から「移行マネジメント(Transition Management)」へと重心を移した転換点だと捉えています。そして、その静かな変更の中に、企業の資本配分、ひいては「移行マネジメントによる本質的企業価値向上」とこの文脈に於けるカーボンクレジット戦略を今後10年規定する、見過ごせない論点が埋め込まれています。

本コラムでは、CNZS 2.0の本質的な変化と、日本企業が「今から」着手すべき論点を、原典の条文に即して整理します。

何が変わったのか――「認証」から「PDCA」へ

CNZS 2.0の根底にある思想変化は、一言で言えば「一度目標を認証して終わり」から「移行を継続的に管理し続ける」への移行です。企業は、短中期目標(5年)の設定、移行計画(Transition Plan)の策定、実行、年次報告、サイクル末の進捗評価、次サイクルの目標設定、というループを回し続けることになります。目標は「掲げて満足するもの」ではなく、「経営として運用・実践推進し、報告し、見直し続けるもの」へと位置づけが変わりました。

象徴的なのが、「ベストエフォート(best-efforts)」原則の明文化です。SBTiは「企業がすべての排出をコントロールできるわけではない」ことを認め、達成可否を一律に合否判定する運用から、前提条件を透明に開示しつつ最大限努力したかを評価する運用へ舵を切りました。

ただし、これを「未達でも問題なし」と読むのは誤りです。原典では、目標年に排出が高止まりすれば次サイクルでより急峻な削減が求められ、次の目標設定には「最低進捗基準(minimum progress criteria)」が課されると明記されています。未達は帳消しになるのではなく、将来へ繰り越され、ペナルティとして効いてくる設計です。

実務に効く5つの変更点

思想の転換は、5つの具体的な制度変更として現れます。日本企業の実務に効く観点で整理します。

1.  基準年は「目標設定時点の最新データ」へ――過去比較から未来志向へ

従来の「2019年比▲50%」のような歴史的固定基準年は廃止され、目標設定時点の最新データを基準年とする方式になりました。SBTiの関心は「過去からどれだけ減ったか」より「これからどれだけ減らすか」へ移っています。なお、企業が任意で従来基準年との比較を併記することは引き続き可能です。

2.Category分類――日本企業は想定より広く「Category A」に入る

CNZS 2.0は企業を規模と地理(所得国区分)でCategory ABに分けます。一般に「Category A=売上4.5億ユーロ以上 または 従業員1,000人以上の大企業」と理解されがちですが、ここに重要な落とし穴があります。

高所得国(日本を含む)に本社を置く企業は、上記の大企業基準に満たなくても、Scope 12排出が1tCO2e以上、または「貸借対照表2,500万ユーロ/売上5,000万ユーロ/従業員250人」のうち2つを満たせばCategory Aに分類されます。グローバルの大企業基準に届かない日本の中堅企業の多くが、移行計画の開示・基準年データの保証・Scope 3目標設定といったフル要件の対象になり得ます。「うちは大企業ではないから緩い要件だろう」という前提は、日本では成立しにくいのです。

3.Transition Plan必須化――強制開示制度との収斂

全企業に移行計画の策定が義務づけられ、Category A企業は目標検証時(最大15ヶ月の猶予つき)に公開する必要があります。

ここで日本企業が押さえるべきは、この要求がSSBJ基準(IFRS S2の日本版)や有価証券報告書のサステナビリティ開示が求める移行計画と、実質的に重なるという点です。任意のSBTi対応と、強制の制度開示が、同じ「移行計画」を要求する構図になりつつあります。両者を別々の作業として走らせるのではなく、一つの移行計画として設計・開示することが、工数と整合性の両面で合理的です。そのために、各開示基準を満たす要件を具体的に整理し、今のうちから開示に必要な業務を洗い出し、業務プロセスとスケジュールを再設計しておくことをお勧めします。

4.Scope 3――3つの方式と、現実的な除外

機械的なカバー率要件は見直され、企業は3つの方式(削減型/サプライヤー・顧客整合型/Category別・活動別型)から選択できるようになりました。Tier1のサプライヤーだけでなく顧客の整合も対象となるため、川下を持つ商社・素材産業などに適しています。

加えて、各Categoryが総Scope 35%未満である場合などの正当化された除外が認められ、最も実質的な排出源に資源を集中しやすくなりました。日本の自動車・総合商社・建設・化学などにとって、対応の現実性が高まったとも言えます。

5.  カーボンクレジット・市場メカニズムの「公式配置」

SBTiは「実装ヒエラルキー」を導入し、(1) 自社オペレーションとバリューチェーン内の直接削減、(2) 電力・ガス網などのサプライチェーン・ネットワーク内の削減、(3) セクターレベルの行動、という優先順位を定めました。そのうえで、サプライチェーン・ネットワーク内の削減を市場手段で支援することを正式に認めています。

具体的には、エネルギー属性証書(EAC)やコモディティ証書が、マスバランスやBook-and-Claimといった管理連鎖モデルと整合性基準(追加性・システムレベルの効果など)を満たすことを条件に位置づけられました。これは実質的に、グリーンスティール・SAFe-fuel・低炭素セメント・グリーン水素などの環境価値市場を、ネットゼロ実現の補完インフラとして制度内に組み込んだことを意味します。

カーボンクレジットを、どう捉え直すべきか

「クレジットが認められた」という一行だけを切り取ると、判断を誤ります。CNZS 2.0がクレジットに与えた位置づけを正しく理解することが、今後の調達戦略を分けます。

あくまで「補完」であり「代替」ではない

OER(Ongoing Emissions Responsibility=継続的排出責任)という新しい任意プログラムが導入されました。企業は、今出している排出の1〜100%を自由に選び、削減、自然吸収源の回復・保護・強化、大気中CO2除去、事前資金供給、低炭素R&D、適応、損失損害支援など、除去に限らない幅広い手段で責任を負うことができます。

ただし対象となるのは、第三者の高インテグリティ基準とSBTi最低基準(Do no harm・二重主張防止・恒久的なリタイア等)を満たす「Verified Mitigation Outcome(検証された緩和成果)」に限られます。さらに重要なのは、OERで支援した成果は自社のScope 1・2・3目標の達成には充当できず、GHGインベントリから差し引くこともできない点です。

つまり企業の訴求は「排出を相殺した」のではなく「継続排出に対する責任として追加的に気候貢献した」という位置づけになります。SBTiはOERを「自社削減の補完であり、代替ではない」と繰り返し明言しており、直接削減への投資を怠ってクレジットで埋める運用は認めていません。

2035年という最大のターニングポイント

任意のOERとは別に、第6.5節(CNZS-C45)には「必須(shall)」の将来要件が定量で書き込まれています。2035年から、企業はScope 1・2・3の継続排出の最低1%に相当する炭素除去を支援しなければならず、これをネットゼロ年(遅くとも2050年)まで直線的に100%へ引き上げます。さらに、長寿命GHG起因の排出については、長寿命除去(DAC・バイオ炭・風化促進・BECCSなど)を10%以上から開始し、ネットゼロ年に100%へ増やします。

つまり2035年以降、除去への支出は「任意の善意的行動」ではなく「逓増する義務」になります。ネットゼロ到達時には、残余排出のすべてを除去で中和することも求められます(CNZS-C46)。将来の除去調達は、いずれ顕在化するコスト(場合によっては引当・偶発債務)として、今から織り込むべき論点になりました。これはカーボンクレジット市場の視点で捉えるならば、全体の拡大というより、説明可能な高品質クレジット、とりわけ長寿命CDRへの需要を中長期にわたり制度的に押し上げる動きであり、2035年以降を見据えたCDR調達ポートフォリオの設計が今から求められます。

日本のJ-クレジットも、吸収・除去系(森林吸収・バイオ炭・Jブルーカーボン)はOERで活用できる可能性があります。ただしSBTiがJ-クレジット制度を包括的に承認したわけではなく、案件・方法論・主張内容ごとに、第三者保証・追加性・二重主張防止・恒久的なリタイア・永続性・Do no harm・透明性を確認する必要があります。特に森林由来は反転リスクがあるため、2035年以降の長寿命除去枠として扱えるかは未確定です。一方、省エネ・再エネ由来のクレジットは「除去」ではないため、OERのVerified Mitigation Outcomeとしては活用余地があっても、2035年以降の除去義務には充当できません。

「クレジットのスタッキング」は封じられた

日本企業が特に注意すべきが、二重計上の禁止です。原典のCNZS-C26.2は、目標達成に充当できないものとして、「OERプログラムまたは他の同等のプログラム・スキームに使われた削減・除去」「第三者に売却・移転されたクレジット」を明示的に列挙しています。

これは、たとえばJ-クレジットをGX-ETSの償却(=同等スキーム)に使った場合、その同じトンをSBTi目標の達成には使えないことを意味します。さらに残余排出の中和(C46)では、除去クレジットがホスト国にauthorizeされ、相当調整(corresponding adjustment)の対象かを報告するよう求めており、JCMの扱いが直接問われます。今後の論点は「どのトンを、どの制度のクレームに、一度だけ充当するか」というポートフォリオ設計に移ります。

企業が「今から」着手すべきこと

CNZS 2.0は移行措置を設けており、V1は2027年末まで目標設定が可能です。2030年目標を持つ企業は、2028年から次サイクル(2030–2035)の目標をV2.0で設定し始めることが推奨されます。猶予はありますが、論点の重さを考えれば着手は早いほどよいでしょう。私たちは、次の5点を優先的に整理することをお勧めします。

  1. 自社のCategory判定:高所得国基準を踏まえ、自社がCategory Aに該当するかを早期に確認する。フル要件の対象なら、移行計画の開示準備が必要です。

  2. 移行計画とSSBJ/有報開示の一体設計:SBTi対応と制度開示を別々に走らせず、一つの移行計画として整合的に方針策定・業務再設計・開示する。

  3. 2035年除去義務の織り込み:継続排出の1%→100%という除去ランプを、中長期の資本計画とバリュエーションに反映する。

  4. 吸収・除去手段のフォワード調達:2035年以降に需要が集中する前に、DAC・バイオ炭などの永続除去枠はもちろん、条件付きで認められる可能性のある吸収・除去系カーボンクレジットを早期に選定・検討し、オフテイク/フォワード確保する。

  5. クレジット・クレームのガバナンス整備:GX-ETS償却・JCM・SBTi目標・OERの間で、クレジットの充当先を一意に管理する意思決定構造を構築する。

結び――「移行マネジメント」は、企業価値の問題である

CNZS 2.0は、脱炭素を「環境部門が管理する目標」から、「経営トップが署名し、CFOが資本配分に組み込み、IRが開示し、調達が市場で執行する、全社的な移行マネジメント」へと引き上げました。SBTi自身が、ガバナンスの最高レベルでの承認と、炭素戦略と事業戦略の統合を要求しています。

これはまさに、私たちが一貫して提唱してきた「GX=企業価値向上」という考え方そのものです。移行計画は、規制対応のための書類ではなく、競争優位と資本コストを左右する経営の中核資料へと変わりつつあります。脱炭素は「掲げる」フェーズから「動かす」フェーズへ入り、今こそ企業が本質的なGXとこれによる企業価値向上に挑むべき時がきました。

バイウィル・カーボンニュートラル総研が考える、今後のGX戦略の論点

移行マネジメントへの転換は、サステナビリティ部門だけでは完結しません。CNZS 2.0が投げかける問いは、調達・財務・IRを横断します。

  • 自社のクレジットは、GX-ETS償却・JCMSBTi目標・OERのどのクレームに、一度だけ充当されているか?
  • 2035年以降の炭素除去義務を、自社の中長期の資本計画にどう織り込むか?
  • SBTiの移行計画と、SSBJ・有価証券報告書のサステナビリティ開示を、一つの計画として設計できているか?

SBTi CNZS 2.0の公開は、企業の脱炭素戦略の前提を一変させる契機です。バイウィル・カーボンニュートラル総研では、この変化が日本企業の開示・調達・資本配分に与える影響について、日々研究を進めています。今回の改定を踏まえた自社の移行戦略の方向性について、まずは知見の共有を兼ねた意見交換をお待ちしております。

 

※本コラムは、SBTi「Corporate Net-Zero Standard Version 2.0」(2026年6月公開)の原典に基づき作成しています。記載した条項番号(CNZS-C25/C26/C45/C46等)は原典に対応します。本記事は一般的な情報提供を目的としたものであり、個別の法務・財務・会計上の助言を構成するものではありません。